概要
所沢市と感慨
埼玉県西部、武蔵野台地に位置し、南部には狭山丘陵が広がっている。狭山丘陵から流れる東川、柳瀬川は市内東部へ流れ、最終的には荒川に至る。山口貯水池(通称:狭山湖)は当市内にあるが、東京都民用の水源となっている(東京都水道局が管理)。池袋を起点とする西武池袋線と西武新宿を起点とする西武新宿線の2つの幹線が東と南からやってきて、所沢駅に互い違いで乗り入れている。その後2つの路線はそれぞれ北と西とに進路を変え、当市内を横断する。
7世紀に律令制度のもと、武蔵国国府が現在の東京都府中市に設置されると、当地は武蔵国入間郡の一部となり、あわせて武蔵国国府と上野国国府を結ぶ官道が築かれた。これが東山道武蔵路であり、市内の南陵中学校でも遺構が確認されている。また、かつての郡境にあたる現在の松が丘付近には悲田処(行路病人などの救護施設)が設置されたという伝承がある。武蔵国一帯は朝鮮半島からの渡来人が数多く定住しており、当地にも渡来人のコミュニティが存在していた、との説もある。
江戸時代には江戸近郊として幕府直轄領が多く直接支配が及んでいたが、一部には川越藩領や旗本領も存在している。ただし、現在の市域のうち、日比田村だけは多摩郡に属し、明治13年に入間郡大岱村(現在の東村山市恩多町付近)と交換されるまで飛び地となっていた。近世には河原宿(現在の宮本町付近)から江戸四谷への道(江戸街道・おおむね現在の西武新宿線沿い・現所沢街道に近い)が整備され、東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地、あるいは物資の集積地として機能した。
1943年(昭和18年)、所沢町と小手指・富岡・吾妻・松井・山口の5村が合併した。戦時中の1945年(昭和20年)にはアメリカ軍による空襲で旧所沢町だけで死傷者が30名以上、家屋への被害も65棟に及んだ。3月10日の東京大空襲では、所沢飛行場にも戦闘機が配備されていたが、強風と延焼により迎撃できなかった。8月15日の敗戦とともに、陸軍所沢飛行場および周辺施設はアメリカ軍に接収され、1971年(昭和46年)に6割、1978年(昭和53年)にさらに1割は返還されたものの、現在も通信基地として残っている。
所沢とiPhone
iPhoneと所沢といっても特に大きな繋がりはないのだが、所沢の近隣に住んでいる私はよく所沢駅を訪れる。そして、たまたま見かけた駅前のソフトバンクショップが、iPhone5をとてもお得に販売していたので思わず買ってしまった経験があるのだ。接客自体も気持ちがよく、待たされることも少なかった。おかげで今でもiPhoneは元気に動いている。今後発売予定の新機種もできればそのショップで買いたいと考えている。こういった情報はインターネットやブログを通じて知ることができるが、やはり根本としては人の情報、口コミが大切ということだろう。